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「双京構想」で京都を再び都へ!

~皇室と京都を考える~

(写真:皇室と京都を考える)

「双京構想」で京都を再び都へ! 京都党はかねてから、文化首都構想を掲げ、京都が再び都として繁栄するべきだという提言を続けている。その中にあって、基幹となるのが、東京と京都という二つの都で日本を牽引する双京構想だ。(我々は両都制導入としていたが、京都市が公式に双京構想と名づけたのでこちらに統一する。)
ただ、京都市が口にする双京構想とは、構想といえるようなものではなく、次のような宣言に近い。

「京都では,日本の大切な皇室の弥栄のために,皇室の方に京都にもお住まいいただき,政治・経済の中心である「東京」と,歴史・文化の中心である「京都」が我が国の都としての機能を双方で果たす「双京構想」の実現を目指しています。」(京都市HP)

つまり、皇室の方にお住まいいただくこと以外、中身はまったく無い。私は一歩踏み込んで、双京構想実現に向けたビジョンと計画を具体的に示さねばならないと思っている。
こういった議論を始めると必ず言われるのは「皇室の政治利用はけしからん」ということだ。しかし、皇室の政治利用とは一体なんぞやと問いたい。第2次大戦の戦火を市中の大部分では免れた京都にとって、戦後といえば戊辰戦争後からはじまる。明治天皇が東京にお移りになったことに併せて、公家、御用商人などは続々と京都を去っていった。当時人口が激減し、その数は文献によってまちまちだが、三分の一になったとも五分の一になったとも言われている。宮家屋敷、公家屋敷が取り潰され、町はかつての活気を失っていった。そんな折、明治10年に京都に行幸された明治天皇は、京都の寂れた姿を大層お嘆きになり、京都に対して多くのご配慮をなされた。世界中から多くの方々が訪れる即位礼・大嘗祭(だいじょうさい)は引き続き京都で開催され、取り壊す予定だった御所は保存が決定し、11年の歳月をかけて今の京都御所の姿になった。また、明治天皇のお墓である御陵は東京に置くことが決まっていたにもかかわらず、京都の伏見桃山に置くことをお決めになったのは明治天皇ご自身だったと言われている。これらのご配慮によって弾みがつき、没落しつつあった京都は見事に復活をとげていく。当時、第1回から第3回まで東京で実施されていた万国博覧会(内国勧業博覧会)を京都に誘致し、日本初の市電が走り、日本初の大型トンネル型疎水「琵琶湖疏水」が開設され、日本初の水力発電所が設置されていった。実質、政治的な働きかけを行い、采配を振るったのは岩倉具視だが、明治天皇のご配慮あってのことであることは言うまでもない。なぜ御所を残されたのかといえば当然、それは後々利用されることを思って保存されたわけで、その観点に立てば、利用していないことが御心に反するのである。したがって、双京構想は、歴史的背景と陛下の御心によって元気づけられ、それに応えようとする京都の町衆の思いなのである。

(写真:紫宸殿の中央に位置するのが高御座)

「双京構想」で京都を再び都へ!1 さて、そもそも双京、ふたつの都というが、「都」とは何なのか。驚かれるかもしれないが、首都の定義というのは国際的にも国内的にもない。したがって、わが国には首都を定めた法律もない。(首都という言葉が法律に登場するのは首都圏整備法か、戦前の帝都交通営団に関する法律ぐらい)国際的にはキャピタルの定義は政府所在地としているが、必ずしも政府所在地が首都ではない。例えば、オランダはアムステルダムを憲法で首都と定義しているが、国家元首所在地および政府所在地はバーグだ。マレーシアは政府所在地をプトラジャヤに移転させたが、国会や経済は従来からのクアラルンプールのままで、実質的複都制をとっている。同じく南アフリカも、三権をそれぞれ、プレトリア(行政)、ケープタウン(立法)、ブルームンフォーン(司法)に分けた複都制としている。また、ロシアもモスクワを正式な都としているが、サンプトペテルブルグ(旧レニングラード)を文化首都と位置づけている。このように、首都の定義については極めて不明瞭であり、それゆえに、一世を風靡した首都機能移転問題も首都移転ではなく、首都「機能」移転という玉虫色の表現になっていたのである。確かに政府所在地、国家元首(天皇陛下)所在地は東京だが、朝廷の所在地を示す陛下の玉座(高御座・たかみくら)は未だに京都御所・紫宸殿に存在する(今上天皇の即位礼で一度東京へ運び込まれたが、再び京都に戻された)。江戸時代には、幕府所在地は江戸であったが、朝廷所在地をもって京都を都とした。朝廷所在地を実質陛下がお住まいの場所を指すのか、玉座を指すのかと言えば、厳密なルールはない。また、陛下が執務、お住まいになる御所は全国で6箇所だが、その内訳は3箇所が東京で(吹上御所、大宮御所、東宮御所)、残りの3箇所は京都(京都御所、京都大宮御所、仙洞御所)に存在している。また御用邸と呼ばれる別荘は葉山・須崎・那須にあるが、陛下の正式な別荘(宮殿)である離宮は2箇所で、修学院離宮、桂離宮と、共に京都にある(これら以外は全て元離宮扱いで、史跡になっている)。 

(写真:御所に収められている宝物。公開は一部のみ。)

「双京構想」で京都を再び都へ!2 実務が行えるこれら御所の存在、2箇所の離宮、そして陛下の玉座たる高御座が残っていることが、京都が都である正統性を示す一因でもあり、文化首都を唱える根拠のひとつとなってもいいように思う。まずは、この際、不明確な定義になっている首都という存在を定義する首都制定法をつくるなり、文化首都を定義する文化首都特別措置法の設置を国に求めていく動きを進めていくべきだと思う。それに加え、具体的に皇室をお迎えする双京構想の骨組みを練り上げていかねばならない。まず、平成は東京で開催された即位礼・大嘗祭を再び京都で実施いただける様な声を挙げていってはどうだろうか。
京都御所は現在、ただの倉庫になってしまっている。仙洞御所の観覧申込者に対する公開と、京都御苑の一般公開以外はほとんど活用されていないのだ。大宮御所は陛下のホテルだが、数年に一度ご利用になるだけで老朽化が著しい。離宮に至っては、観覧申込者に公開する以外、全く利用された痕跡はなかった。利用促進を図るべく、まずは園遊会やお茶会を御所、離宮でどんどん開催して頂ける様に取り組むのもいいのではないだろうか。

(写真:一般公開は平日でも多くの人が訪れる)

「双京構想」で京都を再び都へ!2 また、京都御所に観光客が来ても見るものがなく、肩を落として帰る姿も珍しくない。そこで、御所や皇室を解説する京都御所博物館建設を促すのもひとつだ。学びの場だけなく観光名所がない御所にとっては一石二鳥だ。同時に、今上天皇も皇室財産の一般公開には大変積極的であることから、現在皇居内の三の丸尚蔵館にしかない皇室ゆかりの展示を、京都でも開催して頂いてはどうだろうか。京都御所を倉庫と揶揄したが、京都御所には大変多くの所蔵品が眠ったままになっている。あまり知られていないことだ。京都御所博物館を作れば展示できるものはいくらでもある。2014年1月、京都国立博物館で皇室の名品展が開催されたが大変好評だったと伺っている。ニーズはあるのではないだろうか。

国に要望するだけではいけない。京都市民の機運を高め、町衆主導でこの構想を前進させる必要がある。そこで、ひとつの提案だが、現在、天皇皇后両陛下と皇太子殿下が入洛される際、大宮御所にお泊りになるのだが、皇室の皆様はホテルに宿泊されている。そこで、御所の中に皇室の宿泊施設を設けてはどうだろうか。それも市民の皆様に募金を募り、町衆の手で作るのはどうだろうか。戦後長きに渡り、東京大空襲で焼け落ちた吹上御所は再建されずにいた。「国民が困窮しているのに新宮殿造営はならぬ」と陛下が厳しく戒めておられたゆえだ。結果、戦後長年御所はなく、昭和35年、皇居再建に先立って民間から募金運動が起きた経緯がある。結果的に陛下の許しがおりず運動は頓挫したが、それがきっかけで吹上御所は再建されている。長年焼け落ちて存在しなかった大阪城の天守閣も大阪市民の手で再建された。名古屋城の天守閣再建も市民の募金運動で建設費用の全額をまかなった経緯がある。こういった運動が展開されれば、もはや政治うんぬんではなく京都市民の願いとなって羽ばたいていくのではないだろうか。
京都市では、皇室の方々に京都にお住まいになって頂くと言っている。これは秋篠宮殿下を想定してのことのようであるが、別の考えもあってよいのではないかと思う。私が大変気がかりなのは、陛下の健康と公務の多忙ぶりだ。内閣からの上奏書類年間2000件、拝謁等の公務200回、平成20年の宮内庁次長の報告によると、昭和天皇74歳当時と比べご会見1.6倍、拝謁4.6倍、行幸2.6倍と激務ぶりが伝えられている。今後陛下の高齢化を前に、崩御なさる前日までお身体に鞭打ってご公務を執り行っていただくことは本当に正しいのかと思う。世間では定年を迎えるお歳になられてから本当の仕事が始まる皇太子殿下が果たしてよい形なのかと思う。そういった観点に立って考えると、陛下御自身のご意志でご退位頂き、上皇へ御直り頂くという選択があってもよいように思う。その上で晩年を皇室のふるさと、京都でお過ごしになりたいと願って頂けるのであればお迎えする用意があってもいいように思う。
慎重でありながらも、闊達に議論をし、皇室をお迎えする準備をしっかり進めていく必要があるのではないだろうか。

公の場で意見したのは以下のとおりです。